2011年05月30日

ドラマ「JIN-仁-」の勝海舟の棋譜並べ

5/29放送のTBSテレビドラマ「JIN-仁-」に勝海舟が棋譜並べをするシーンが出てきました。

今回のストーリーは、
南方仁が長崎から江戸に戻ってきた。
「避けられない戦もある」と意気軒昂な龍馬と、「暴力は暴力しか生まない」という仁はかみ合わず、仁はもどかしさを抱えたままである・・・というところ。


仁は勝海舟(坂本龍馬の師)を訪ねた。
勝は本を片手に棋譜並べをしている。

http://bit.ly/kUDaVa

※お気づきになりましたか? 五子局です。
勝海舟1.jpg

※細かい手順は後の図で。


勝、白1に打つ。
勝海舟碁盤.jpg

仁「勝先生、幕府は今どういう状態なんですか?」
勝海舟「知らねえよ。おいらまたお暇を出されちまったんだからよ。(黒2を譜を見ずに打つ。石音のみ。)」
仁「知らないって。」
勝海舟「(石を取りながら)あちこちに頭下げてやったのによ、慶喜さんはおいらのやることなんもかんも気にいらねえんだ。知るかってんだ。(白3に打つ)」
(※勝は1866年長州征伐の停戦のために尽力したが慶喜が台無しにしたので怒ってお役御免を願い出たという顛末。)

勝海舟碁盤2.jpg

仁「江戸が戦に巻き込まれるのだけはイヤだって言ってたじゃないですか。」
勝海舟「(盤上の石を集め崩して)四候会議ってのをやるんだってよ。
慶喜さん(白一子を石の山から取り出して盤に)を交え、
薩摩・土佐・越前・宇和島(黒の四子を周辺に並べる)の有力諸侯でお国のことを話し合おうって薩摩が言い出したらしいのさ。」

※以下の画面上の字は当方が追加したもの。
劇中で勝が示している石。

勝海舟碁盤3.jpg

勝海舟碁盤4.jpg


仁「国のこと、ですか?」
勝海舟「薩摩の狙いは天子様の前で長州の処分を解かせ、
長州と共に(石の山から黒一子を新たに取り出して薩摩の黒の側に置き)
倒幕への備えを進める(薩摩・長州の二子を越前・土佐の前に割り込ませてで白の「慶喜さん」を石山に追いやる)とか
そんなとこだろうよ。(勝、席を立つ)」


勝海舟碁盤5.jpg

勝海舟碁盤7.jpg

勝海舟碁盤8.jpg

勝の読みは薩摩と土佐の協力によって倒幕に動くというもの。
仁は勝から竜馬がこの倒幕計画に絡んでいるらしいことと「今」が慶応3年、1867年であることを確認する。


ちなみに白1、黒2、白3は下図の通り。
http://bit.ly/jFha5

勝海舟2.jpg


碁のシーンが、勝が御役御免で時間をつぶすさまと彼は彼なりに状況を把握し構想を練っているらしいと見せていました。

勝が慶喜=白、諸藩=黒に見立てて説明するところが興味深い。
慶喜さんには味方の白石がいません。

また、五子の置石がある対局を勝が並べるというのも暗喩的で面白い。
白=徳川の世、黒=明治の世、とみると明治の世を作る助けとなる五子は既に置かれて十分働いているとも読めます。
後に慶喜は将軍職を辞して、白黒混交御の石の山すなわち大勢の市民と同じ世界に追いやられる。


何度もドラマ化されている幕末の情勢と、戦国時代の婚姻政治の玄妙さを描く『江』(リンク先:『江』の囲碁シーンについての記事)は同じフィールドで比べられないけれど、
今回の『JIN-仁-』の囲碁シーンはシンプルかつ奥が深い、という感じでした。





 

posted by もっも at 23:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月08日

ドラマ「江」の碁、秀吉の念書

NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の囲碁シーン登場の二回分を見ました。
※ 最期の一手の棋譜が抜けてたので追加しました。

第13回「花嫁の決意」(4/10放送分)
第15回「猿の正体」(4/24放送分)
連休中に見直して思ったのは「このドラマ、案外玄妙幽玄かも知れぬ!」です。

囲碁シーンが出てくるこの2回は江の最初の結婚の前後です。

「江」は「碁ぅ」、あるいは「劫”(ゴウ)」なのか?
「江〜姫たちの戦国〜」は江姫の運命を盤上の石に象徴させる壮大なファンタジーなのかも・・・?
そう期待させる演出です。
本記事も長いです。

このドラマはコメディーときにオカルティズム濃厚な演出や役の年齢が合ってないようなキャスティングに違和感が大きくて放置してたのですが、いわゆる「NHKの大河ドラマ」に期待するイメージを抜きにすれば楽しめると思います。
(しかし、期待値や先入観にかかわらず大抵の視聴者はそんなに気合入れてテレビドラマを見ないものだから、脚本やこだわりの細部というよい意味の「けれん味」に目がいくようにしてほしい。毎回録画再生にこんなに時間とエネルギーかけられないわ・・・。^x^)


今回は第13回「花嫁の決意」(4/10放送分)のこと。
秀吉の命で江が織田信雄の家臣・佐治一成に嫁ぐまで。

徳川家康対織田信雄の囲碁対局シーンが出てきます。

ちなみに盤面はこんなかんじからスタート。
次、白の家康の手番です。
(盤面はテレビの画像を参考にしました。おかしかったら修正ください)
http://bit.ly/jvLWuh(つぶや棋譜)
詳しくは記事後半で。

13-goban-0.jpg


ドラマは、「戦国時代、娘や姉妹は重要なコマだった・・・秀吉は信長の三人の姪という天下取りに向けての最高の切り札を手に入れた」の語りから始まる。


秀吉から江姫12歳に縁談がもたらされる。
「サルの言いなりで結婚などしたくない」末妹の江、「ありえぬわ〜」と笑い飛ばす次姉お初、「なぜ末の江に・・・」と訝しがる長姉茶々。

三姉妹は秀吉のもとに赴き、縁談のことを尋ねる。
縁談の相手は尾張大野城城主の佐治一成(さじ かずなり)。
三姉妹の母お市の方の姉の子、つまり従兄。

秀吉は織田信長が夢枕に立って「信雄と仲ようやれ」と言ったのだと三人に説明する。

秀吉の形勢判断は、「(信長の次男である)織田信雄(のぶかつ)が羽柴を攻めようと計画している、徳川もそれに与している。このままでは信雄を敵に回し討たねばならない。佐治一成は信雄の家臣、お江が佐治に嫁げば織田家の勢いを取り戻せるかもしれない」というもの。

江は織田家再興に心揺らぐが、秀吉が茶々に執心なのは周知である。
江は目障りな自分が嫁げば秀吉は茶々をものにできると思っているのだろうと言い当て、姉の茶々も母代わりの態度でこの縁談を断る。


※「茶々ではなく江を嫁がせたのは秀吉が江を疎んじたから」という説は植松三十里さんが述べておられます。
この辺りもこのドラマの参考にされたのでは?
リンク先は小和田哲男さん(ドラマ「江」時代考証)と植松三十里さん(時代小説家)の対談「戦国から江戸時代を強く生きた女性たち」http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_taidan_201103.html
この対談は興味深かったです。本も読みたくなった。※


また山崎城で秀吉、石田三成、黒田兵衛ら内内の会話では

「佐治は5万石の小大名ながら伊勢随一の水軍を擁する。信長の姪御が縁付けばいくさは俄然我ら羽柴に有利。また、佐治が信雄から離反することも考えられる、それが叶わずとも江が嫁げば信雄の動きを内側から見張ることができる」と。

秀吉の妻おねは「三人の姫様はお市様から預かった大切な姫様、いくさの道具になど!」と憤るが、秀吉は佐治側にこの縁談の申し入れを送る。



場面変わって浜松城。
織田信雄と家康が碁を打ちながら会話。
江と佐治との縁談はすでにここにも届いている。
黒:織田信雄、白:徳川家康

家康「サル殿から縁組が。しかも茶々様ではなく末の姫様にとは。(家康、白1に打つ)」
信雄「誰でもよいのです(信雄、間髪いれず黒2に打つ)。サルめは佐治の水軍が欲しいに決まっておりまする」
家康「ま、見え透いたことをあえてやるのがサル殿。・・・それでいかがなされるおつもりかな(ヒキの画面。信雄、家康が囲む盤面全体が映る)」
信雄「止める理由はない。江など佐治家にくれてやりまする」
家康「しかし、佐治殿が裏切るということは?」
信雄「それはありませぬ」
家康「織田の絆はそれほど深いと(家康、白3に打つ)」
信雄「さよう(信雄、間髪入れず黒4に打ち、二子取り上げる)寝返りなど断じて!させませぬ」

※ドラマの囲碁シーンの監修をした桑原晋平六段によると、家康の次の一手が「いい手」だそうです。
(桑原さんによるレポート記事「週刊碁 2011年2月7日号」掲載から。)

白、どこに打ちますか?
棋譜再生 http://bit.ly/klP5dj

13-goban-4.jpg

家康「(信雄をじっと見て)なるほど・・・(家康、江姫が秀吉を打擲するのを唖然と見た場面を回想)あの姫様をサル殿が出そうとした訳・・・分からなくもないのう(家康、5に打つ。)」

※白5の図はもう少し下にあります。


ここで囲碁のシーンは終わり。

桑原六段によると、監督側から盤面作成について注文も多かったそうです。
これは「家康にいなされる信雄」のイメージとのこと。「信雄はうまくやってるつもりが、家康の最後の一手でギャフン!と言わされる。しかも打たれてから『アッ!』となる感じ」だそうです。
白1
gou13-1.jpg
黒2
gou13-2.jpg

黒2までの盤面全体。
13-3-goban.jpg

白3、黒4
13-5.jpg


白5・・・ギャフン!
13-6.jpg

白5は上辺へ。
13-goban-5.jpg

ドラマでは映りませんでしたが、是非「ああっ」な信雄のリアクションを想像したいところ。

織田信雄(wikipedia)、戦国時代の武将としては「時流を見る目のなさによる失敗が多い」おっちょこちょいだそうです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84


(信雄より碁が弱く、歴史も弱いので助けて〜
白1,3,5で黒に二子取らせて右上を白一色にできたということ?
白5で黒に二眼できないということか。

黒は白5に早く打っておけば生き延びたということ?

「信雄に二子取らせる」は何の比喩なんでしょう? 
江姫と武功? 領地?)


さてドラマは三姉妹のいる安土城に切り替わる。
寝所のパジャマトークでは「婚儀の話進みませんねえ〜」とのんきなお初チャン。
「スイーツ女子」として物語にスパイスならぬバニラエッセンスを振りまいてくれる存在です。


江は「織田の誇りを守ってほしい」との母の言葉を思い起こし、縁談を受け入れ安土を出た。
長姉の茶々は、秀吉の妻おねから江が秀吉に書かせた念書を見せられる。
この輿入れで織田の繁栄といくさの回避だけでなく姉を守ろうと、秀吉に「茶々に邪心を持たぬ」と誓わせていたのだ。
守らねばと思っていた末の妹にここまで守られていることを知って涙する茶々。


大野城で江が佐治一成と対面するころ、
秀吉は信雄相手のいくさを起こす。
信雄は秀吉が内通したとして、秀吉の家老を3人も斬り殺した、看過できぬと。
佐治が秀吉側に寝返るか・・・?

(※ここ、あっさりセリフで流されましたが
これは天正12年(1584年)3月6日の伊勢長島城での謀殺の件だそうです。
秀吉に内通したとして信雄に殺されたのは岡田重孝、津川義冬、浅井長時。
彼らはもとは「織田信雄の三家老」で秀吉が懐柔していたらしい。
秀吉の「わしの家老」の表現だと、家老を間者として送り込んだニュアンスなんじゃ??

ともかくこの件が発端となって小牧長久手の戦い、秀吉軍対信雄・家康連合軍の戦いになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

ドラマ「第13回 花嫁の決意」の内容はここまで。




今回の囲碁以外のわたしのフォーカスは「念書」です。

江が秀吉に念書を書かせたというのはドラマの創作部分でしょう。

三姉妹のやり取りは「お嫁に行きたくなーい」「秀吉キライ〜」とかきゃぴきゃぴした今どきの女の子を感じさせますが、よく見ると江はしたたかですね。
自らの結婚を秀吉が姉に不可侵とすることを条件として受け入れる、これぞ戦国時代の政略結婚、合戦中心の争いではない「姫たちの戦国」。

しかし、後に(秀吉が茶々を側室に迎えるという史実どおりの展開で)、江が書かせた念書は反故にされてしまいます。

現代の契約書と同様、当時の誓約にはフォーマットがあり、神仏を頼みに誓うとするのが固い。

参考例:国立公文書館所蔵の『浅井久政同長政連署起請文(朽木家古文書)』(リンク先の三点目の画像:クリックすると大きくなります)。

http://www.archives.go.jp/exhibition/popup_haruaki_23_haru/popup_haruaki_23_haru_01.html

これはお江の祖父と父・浅井久政と長政が朽木元綱との連盟を約束する書状。

起請文(きしょうもん)は前書(まえがき)の後に神文(しんもん。罰文とも)からなります。
前書には契約内容とそれに関わる人物による署名、神文には誓約を破ると神仏の罰をこうむる旨が記されています。
神文はここでは熊野の那智大社の護符の裏に書かれており、ヤタガラスの印判で文字を形象しています。

現代の契約は法の下ですが、当時は神仏の立会いの元に成立、とも言えるでしょう。


江姫は当時の武将間の公文書ルールを使いこなせず、秀吉に「お姫さまのお約束(はあと)」的にいなされます。
(ドラマでは秀吉が「ちかひ申すこと 一の姫に邪心を持たぬ」としたため、秀吉の署名、花押のみ。)

この後江が佐治一成とも離縁にさせられたことで、この婚姻を交換条件にした念書自体が不成立、と一笑に付されてしまいます。


もしここで正式な誓紙を婚姻を条件に入れずに交わしていたら
「おのれ秀吉、神仏に代わって成敗してくれる〜!!」とお江が兵を挙げるという展開もありうるのかもしれませんが、歴史を覆さない大河ドラマではそうはなりませんでした。

(まあ、当時の武将・・・とくに信長や秀吉は誓詞がなんぼのもんじゃいとばかり約束破りも多かったのでフォーマットを整えていたらよかったともいえないわけですが。)



「江」の観賞はまだ続く。

いろいろやりたかったのに連休が終わってしまう〜><
posted by もっも at 20:03| Comment(7) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

佐為と秀策と水野忠邦

『ヒカルの碁』の第一話のシーンから。
(下のyoutubeでは1:30くらいから)

小学6年生の進藤ヒカルが学校で社会科のテストを受けている。(コミックス1巻では自宅でテストの直し。)


3:30くらい〜

ヒカル「佐為、おまえ知ってるか? 天保の改革って」
佐為「天保の? 老中の水野様が始められた?」
ヒカル「それそれ!」
佐為「ああ、懐かしい。一度城中で碁を打ったことがあるんですよ」

(ペリーの浦賀来航についても聞いていましたがペリーの件はまた別の機会に譲る・・・)
(どうでもいいけど、ヒカルの回答欄を見ると「徳川綱吉、水野忠邦、伊藤博文」って。ずいぶん幅広い試験範囲。学期末まとめテストなのか、ヒカルが間違ってるのか。)


天保の改革は1841〜43年、
ペリーの浦賀来航は1853年。

作中のやりとりは、囲碁に未練を残す幽霊・藤原佐為が以前とりついていた「本因坊秀策」とはどのような時代に生きた人かを読者に説明するものです。
秀策は町人文化が爛熟し開国に向かう江戸時代後期の人物であることがわかりました。それとお城に上がって碁を打っていたこともさりげなく宣伝。
(プラス、この当時のヒカルの悪ガキぶりの説明・・・小遣い止められたからっておじいさんの蔵に侵入して碁盤を盗んで売ろうとしてるし、テストをカンニングするし・・・ビルドゥングスロマンだから主人公が物語の冒頭は未熟な道徳観なのは仕方ないとは言え・・・むちゃくちゃな奴やな><。)



わたしは『ヒカルの碁』をアニメで知って、この天保の改革云々のやりとりがとても印象に残ったもののその後の物語の展開に追われてそれ以上追求してませんでした。


時代と碁の関わりを調べて最近考えたことのまとめ。

ほんとうの秀策は城中で水野忠邦とは打ってなさそう〜。



(『ヒカルの碁』はフィクションだからそこをどうこう突っ込む気はないのですが。
歴史上は秀策と水野忠邦に接点はありえたか? を見る試みです。)



水野忠邦=寛政6年6月23日(1794年7月19日)〜嘉永4年2月10日(1851年3月12日)
本因坊秀策=文政12年5月5日(1829年6月6日) 〜文久2年8月10日(1862年9月3日)

水野忠邦は碁所衆をまとめる役職である寺社奉行も経験しているが、その時期は1817年〜1825年。
秀策が生まれる1829年以前で、寺社奉行としては碁打ち秀策との接点はない。

また、城中での碁はふつう年に一度将軍(または担当の寺社奉行ら)の前で碁打ち衆同士の対局を披露するものであったので、「城中で老中水野公と秀策が対局する」というセッティングは考えにくい。
そもそも城中は将軍のためにお勤めするところだから、お侍が碁打ちと碁を打つ場として江戸城は変です。

お城碁の後に寺社奉行の屋敷に下がって対局の続きや別カードの対局を見せたり、碁の好きなお大名や商人らが個人的に屋敷に碁打ちを招いたり、ということはあったようですから、打つならこっち。

じゃあ、水野が個人的に秀策とお屋敷で打ったかというと・・・
質素倹約を旨とし遊芸をことごとく退けた水野忠邦が碁打ちを招いた宴を開いたりそれに加わったりするのかな? というのがわたしの見方です。


二人の履歴を重ねてみると・・・。
水野存命期の秀策は、子どもから花形スター棋士まで一気に駆け上がっていきます。

一方の水野公は波乱万丈。
水野は大御所として権勢をふるっていた家斉公の派閥の影で臥薪嘗胆していたものの、家斉没後に家慶の世となると老中として放漫な財政の立て直しと外国船来襲時への危機管理を目指してばっさばっさと大改革。これがいわゆる「天保の改革」。

芝居や遊郭は城下から遠ざけ、贅沢な服装はダメ、著作は検閲。あれはダメこれもダメ。庶民の生活の楽しみはことごとく規制された。
それでも庶民はこっそり隠れてぜいたくを楽しみたくなるのが定石だけど、このときは街中に隠密を放ってそれも徹底的に取り締まった。
株仲間の解散は複雑になりながらも機能していた流通システムの混乱を招いた。
さらに金利・物価引き下げ政策が労賃の低下も招いたので庶民は生活をさらに引き締め街は陰鬱に活気を失って・・・って平成デフレ恐慌? 似たようなものがあるなあ。

(ちなみに天保の改革が実施されていた1841〜43年の秀策は13〜15歳、初〜四段。
太田雄蔵らとの稽古碁がほとんどで、どこかのお屋敷やイベントに招かれての対局譜はなかなかない。
1841年に秀策は故郷広島への帰省から江戸に戻る途中の大坂で五段の中川順節に四局全勝し、その棋譜は当時の天皇の元にまで届いたそう。
もし奢侈禁止の改革がなければ、話題の秀策はあちこちからお声がかかってたかも。成長期に稽古に集中できたという観点ではこの時期は秀策にとって吉だったのではないかな。)

水野忠邦は国防強化を目指して江戸や大坂を直轄地にするため領地替えを命じたが、この「横暴」な上知令の発令で諸大名らから大反発を受けた。
1843年9月ついに老中職を解かれる。
とかくこの改革はアメのないムチ改革で人臣に背かれた。
財政の立て直しも外交政策も最重要課題だけど、水野は現状把握が不十分で目的に手段が合っていなかったみたい。




水野失脚の報は一夜で城下に広まり、生活を締め付ける法令の連発で怨みを溜めていた庶民が屋敷をとりかこみ罵声を浴びせ石を投げ入れ、門を押し倒し屋敷に侵入しようとまでなった。その寸前で鎮圧された。
後に水野は老中に再任されるが改革の大鉈を振るった影はもはやなかった。




進藤ヒカルが受けた社会科のテストでの藤原佐為のセリフとしては、
「水野様といえば失脚の折に人々がお屋敷に石を投げ込んで大騒ぎになりました〜」

がしっくりきそうなんですが、ヒカルが「えー?! なにそれ!」とかテスト中に叫びそうです。

残されている棋譜や文書が全てではないし、何らかの形で水野公と秀策が碁を打つドラマがあったって面白いとは思います。
秀策は弘化3年(1846年)18歳の時に名人格の井上因碩を破った耳赤の一局で広く名を知らしめ、嘉永2年(1849年)には御城碁に。一方水野忠邦は弘化2年(1845年)に二度目の老中職も辞して隠居の身。
静かな屋敷で水野が秀策に囲碁指南を受けてたら
「水野様、相手を殲滅させるような厳しい攻めは反発を招きます。相手にも与え一目二目でも確実に勝てばよいのでございます。」
「ゴフッ・・・」
・・・そんなのしか思いつかないや。><

posted by もっも at 15:24| Comment(8) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

徳川秀忠の上覧碁とお江の方

今年のNHK大河ドラマは「江〜姫たちの戦国〜」です。
浅井長政の三人の娘茶々(淀)、初、江(ごう)の数奇な人生がメインで、とくに三女のに焦点を当てています。江は当時の権力者に翻弄され政略結婚を重ねて三度目の結婚で徳川二代将軍秀忠に嫁ぎ、三代将軍家光、忠長ら多くの子を成しました。

(※以下史実とは言え、これから始まるドラマの登場人物の去就を含みます。ドラマではどのように描かれるか分かりませんが。m(  )m)


家にある「依田流並べるだけで強くなる古碁名局集 第二集」(リンク先アマゾン)に興味深い棋譜が載っていました。
51J409+XzEL._SL500_AA300_.jpg
(この本は図も大きく一譜ごとの手数も少なめで見やすく、一手一手の説明がアマチュア向けに丁寧な感じ。
「ココがポイントです。この局面どう展開させますか」と攻め合い・サバキ・詰碁などテーマをとって考えさせる囲碁教室の雰囲気もあります。依田さんの古碁ラブ!な気持ちもひしひし伝わってきます。全278ページに26局収録。)

寛永三年(1626年)9月17日 於二条城
安井算哲(先)対中村道碩 黒3目勝ち
「本局は二代将軍秀忠の御前で打たれた」と同書に説明があります。

征夷大将軍位は1623年に子の家光にすでに譲っていましたが秀忠は大御所として依然「将軍」的政治力を持ち続けていたので「二代将軍秀忠」と書かれたのかもしれません。(当時の棋譜や史料にどのように書かれていたのかは当方は未確認。)


対局者の安井算哲は小説『天地明察』の主人公渋川春海こと二世安井算哲のお父さん、中村道碩(どうせき)は本因坊算砂の弟子です。ちなみに『依田流2』には二世算哲対本因坊道策の初手天元局の解説も入っています。

リンク先棋譜再生(つぶや棋譜)

算哲-道碩お城碁.JPG

 

へええ、秀忠がこの対局を見たんだ!
すると上野樹里・・・じゃないお江の方も「お城で碁の対局があってね」なんて話を向井理こと夫の秀忠から聞いたかしら、とウキウキとドリーム炸裂させかけて、あらっ? と気になりました。


寛永期といえば、すでにおおかた江戸に政治が移っていたんじゃなかったっけ? 
京都の二条城でわざわざ碁を観たということは、このときなにか京都であったのかな? 


驚いたのは、秀忠が二条城で対局を観たという前々日(1625年9月15日)にお江の方が江戸城で死去している点。

将軍家光やその弟の忠長も秀忠と一緒に京都に滞在中だったとか。
ええーっ お江が亡くなったのに旦那と息子はのんきに京都で遊んでたの?
・・・って当時は電話もメールもなく、東海道新幹線のぞみも走ってませんでしたネ。(><)


調べてみたら、このときの将軍らの京都滞在は天皇の二条城行幸を迎えるためだと分かりました。

いわば後水尾天皇に将軍のお城まで足を運ばせることで徳川の執政が世の中心で朝廷より位置関係も上だ、と世間に知らしめるものです。
このイベントの数年前(1620年)に秀忠とお江の方の娘・徳川和子(まさこ)が天皇に入内しており、この行幸の時に和子は懐妊中。将軍家と天皇家の関係は密になっていました。

天皇を二条城に迎える準備は二年以上前から進められていました。秀忠は6月、家光は8月に、多くの大名や旗本も入洛し9月の行幸というメインイベントに備えました。


9月6日〜10日 天皇の二条城への行幸を秀忠らが迎える。
9月11日 お江の方危篤の報が江戸から京都に届く。
9月12日 忠長が江戸に向けて出立。秀忠と家光は公務のため京都に残る。
       同日、秀忠は太政大臣に、家光は左大臣に、天皇より正式な任命を受ける。
9月13日 秀忠と家光が宮中に行幸の御礼に参内する。
9月15日 お江の方死去。忠長は臨終に間に合わず。
9月17日 二条城で上覧碁。
9月18〜19日の夜半 お江の方死去の報が京都に届く。
9月19日 家光はこの日京都に向けて出立の予定だったが喪に服して延期。



二条城での上覧碁は、お江危篤の報が届いても秀忠らが京都で身動き取れないときに行われたものでした。
家光が19日に出立の予定を立てていたことから17日の上覧碁は天皇行幸に合わせた一連の行事の中に組み込まれていたことが分かります。

道碩と算哲の本局は大熱戦の名局だそうです。
17日当時、対局者は内々の事情を知る由もなかったでしょう。


秀忠はこの対局をどのように観戦していたのでしょうか。
盤上の烏鷺の戦いにしばし憂いを忘れることができたのか、
石音を耳にしつつ、時代の流れによって生きる道筋を作られたお江の身に思いを寄せていたのか。


御城碁の始まりと言われるこの一局はこんな時に行われたのでした。
秀忠がどのような思いで見ていたかを思うと、棋譜並べの感慨も違ってくるようです。

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2010年06月12日

二世安井算哲の初手天元(勝手読み)

『天地明察』に出てくる本因坊道策対二世安井算哲(渋川春海)の御城碁の初手天元の一局について考える。

1670年10月17日 二世安井算哲(黒)対本因坊道策 白9目勝ち
リンク先棋譜再生(囲碁の棋譜でーたべーすさん)

※碁そのものの内容については高尾紳路九段が「たかお日記」で、
依田紀基九段が「依田流並べるだけで強くなる古碁名局集 第二集」(マイコミ囲碁ブックス)で解説されています。
高尾さんのはブログだからサワリですが、同じ局面でもお二人の解説の仕方が違ってて興味深いです。



※注意:以下は『天地明察』の物語内容に触れています。
小説には小説の書き方があるとした上で、算哲の意思についてあくまでわたし個人の勝手読みです。
長いので続きを読むに入れました。
無茶なことを始めたなあと呆れながら素人解釈を見物する方はどうぞ。
続きを読む
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2010年06月07日

家康と碁打ちの続き

前に書いた「家康はなぜ碁を重用したのだろう」について考え続けて夜も日も明けずメシも喉を通らず・・・ウソ。^p^


「分かりません」の続編。

本屋さんの歴史書コーナーに寄り道して、『天地明察』以来気になっている和算の教科書とかを立ち読みしたり、ごはん食べたりして気づいたんですが、

家康と江戸幕府ってべつものだ!?


今頃気づきました。>< 大丈夫か、わたし。

家康が碁打ち本因坊算砂を個人的にお抱えの碁打ちにしたということと、幕府に寺社奉行の元で碁所役というポジション(でいいのか?)が成立する時期は違います。
(算砂をお抱えにした時期がよく分からないけど家康は1615年没、碁所役の成立は1654〜62年頃(らしい。2つの説を見つけた。どう違うのか分からない。))

したがってこの二つは分けて考えなくてはいけない。



家康が碁打ちを経済的に保護し身分を与えた理由は家康の諸芸に対する処遇との対照で、
幕府が碁所役を置いた思惑は幕府(家光〜綱吉あたり)年表を詳しく調べたら分かってくるのでは・・・
ってすでに先行研究があるんでしょうか。

ネットと立ち読みとおうちにある囲碁読み物では経緯が分からない。

日本棋院からそんな資料が出てるかしら。
前に行った棋院の殿堂資料館には詳しいこと書いてなかった気がするけど見落としたか。
・・・とりあえず図書館でしっかりした史料にあたろう。


それと、道策以降の本因坊代々の墓がある本妙寺も気になってるんですが、
ほかの林家、井上家、安井家の墓は決まった菩提寺がネットで調べた限りではよく分からない。

自分でもあれこれ仮説は立てつつ。
調べ物ってウキウキします。
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2010年06月02日

徳川家康はなぜ囲碁を重用したのだろう

ちょっとまえふりが長くなりますが・・・

先日(2010/5/31)の朝日新聞に手塚治虫文化賞記念講演のことがレポートされていました。
asahi.comに記事あり。

本賞は「マンガ文化の健全な発展」を目的とした朝日新聞社主催の漫画賞。
2010年、第14回の大賞受賞は『へうげもの』(山田芳裕著、講談社刊)。

漫画は安土桃山〜江戸初期の武将茶人古田織部(ふるたおりべ)を描いています。わたしも読んでいるのですが、面白い♪
戦国時代を安土桃山文化華やかな時代として、人物を「武人」としてより「文化人」としての視点から描いています。
織部のモノへの執着、主君や周辺との折り合いのつけ方は現代にも通じるようです(モノオタクのサラリーマン?)。 戦で首をとっての武勲ではなく話し合いでの調停を得意としたという点、従来の戦記では「道楽モンのヘタレ武将」の扱いだったそうですが、ここではひょうひょうとした「智将」であると。
歴史事象への独自の解釈も(信長の死、秀吉の死など)キャラクター造形から説得力があります。
作中、あらゆる武将を差し置いての千利休の真っ黒さにびっくりします・・・。
漫画の中で「へうげ(ファンキー)」な脚色が加えられた焼き物や衣装などのデザインも楽しい。



へうげもの(1) (amazon)

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さて、その大賞作品をテーマにした記念座談会は、
「数寄とひょうげ――古田織部から現代へ」
作家の荒俣宏さんと陶芸に詳しい永青文庫館長の竹内順一さん。

講演で荒俣さんは徳川家康に触れて「奔放な人物を排除し、武士を文化人にした」と述べました。


わたしは講演の荒俣さんのこの言葉を読んだときに、
「家康はなんで囲碁を重用したのだろう? その政治的意図は?」
と改めて疑問を抱きました。



徳川家康は「囲碁のプロ制度の基礎を作った人」と囲碁関係者には認識されています。
その顕彰で日本棋院の「囲碁殿堂」入りもしています。

碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。

として、棋院の囲碁殿堂資料館にもそんな展示がありました。


『へうげもの』の古田織部をはじめとする安土桃山の絢爛さを排した家康。
農本主義、秩序と平安の国家を築こうとした家康。保守的だが新しいものも好んだと言う・・・。

囲碁は戦略的なゲームだから、家康は囲碁好きだったから、本因坊算砂(日海)という碁打ちが信長・秀吉・家康に碁を教えたから・・・
なんだかピンと来ません。

徳川幕府体制を作っていくという視点から考えると、家康の囲碁棋士の登用への政治的な意図はなんだったのでしょう? たんなる将軍の道楽でいいのかしら。

御城碁が「武士の文化人化」に一役買っていた?


徳川幕府二百余年の間には何度も体制の見直しがあったのに、その間ずーっと続いた「御城碁」。
囲碁好きの将軍はお好み碁を打たせたりしたそうですが、そうでない将軍にとっては「しきたりとして残っている」というものだったろうと想像します。こういうのは、将軍個人の好ききらいで切ったりするものでもないけれど。


徳川家康の囲碁殿堂入りに関連する「せとうちタイムズ(2004/12/4)」の記事に
 家康のねらいは対局を通して人物評定に意を注ぎ、諸将の動向を探り、碁友、碁敵が心を通じてあえる味方になるなど遠大な「布石構想」になると考えていたのだろうと分析する人もいる。


とありますが、(この分析している人はどなたか、資料が分かれば知りたいです)
それならば家康の構想は二百余年形骸化しながら残ったということになるのでしょうか、それとも生き続けていたのでしょうか。

なにかいい資料があれば教えてください、お願いします。


少々ものものしく言っちゃうと、単に「家康さんのおかげで今のプロ棋士がいるんだよワーイ」ではなく、囲碁という遊戯、棋士として登用されてきた人は徳川以来社会のなにものだったのだろう、ということを知りたいと思います。
「棋士」にはなぜ「士(さむらい)」の字が使われているのでしょうか。



碁盤ごしに戦国時代〜江戸時代を観ると『へうげもの』のような国史外伝が生まれそうな気もするのですが・・・どなたか描いて☆
posted by もっも at 00:52| Comment(6) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月15日

江戸時代の碁会所:伊勢の「横丁棋院」

先日英語教養番組トラッドジャパンで囲碁を紹介していましたが、そこで「江戸時代には碁会所が次々とでき・・・」と言っていました。

江戸時代の碁会所ってどんな感じ?? と思ってたら、

今日囲碁ステーションブログさんの記事にまさにそんな写真が!



伊勢の「おかげ横丁」という江戸〜明治初期の街並みを再現した観光名所。

碁会所もあるんですね!目

横丁棋院

紹介映像もありました。 


看板を読むと「一日席料 700円」だそう。
土曜日には子供教室もあるようです。

おかげ横丁の建物は
雨風の強い伊勢ならではの「きざみ囲い」という外壁の仕上げと「妻入り」という玄関が特徴だそうで、立派です。


いいなあ、行ってみたくなりますよね。

勝ったほうがあとでおかげ横丁のお店でごはんとかおごるの、どう?


(だってわたし負けるから^▽^ 負けたうえににおごらされるなんていやー。)




※トラッドジャパンの「囲碁」の回、
再放送は
2010/1/19(火)6:40〜7:00、12:40〜13:00

NHKオンデマンドで視聴(有料 210円 期間限定)もあります。
https://www.nhk-ondemand.jp/program/P200900029500000/index.html

テキストは書店に。
posted by もっも at 12:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

2010年の1月1日はお城碁!?

江戸時代のお城碁は、11月17日と決められていたそうです。
(はじめのころは期日不定、享保のころよりこの日と定められた。「新・早分かり用語小事典」から。)

年賀状を書くのに暦を調べたら、
来年2010年の1月1日は、旧暦の11月17日なんですよ! お城碁の日!


もしもいまだにお城碁のしきたりが続いていたら、
2010年1月1日こと旧暦11月17日には、囲碁棋士の上位の方々は頭をまるめて江戸城御黒書院に上がって碁のお披露目、です。

な ん て ね。^▽^


正月のことを言われると気がせいてイヤですね、すみません。m(   )m

こんなネタ正月にでも出せばいいのにね。^x^


風邪ひかないようにのりきりましょう!
posted by もっも at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

「耳赤の一手」つづき 目差の発見

先日「耳赤の一手」の一局を解説した番組のことを書きましたが、これはNHKの「その時歴史が動いた」という番組だと教えていただきました。(ありがとうございます)
もともと『伝説の碁打ち・本因坊秀策』という番組があって、「その時・・・」でもその映像が活用されたようです。

「その時歴史が動いた 勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_07.html#01


また放映してくれたらいいのにね。



それで、この一局は「秀策3目勝ち」と百数十年の間信じられていたがアマチュア棋士の指摘で「2目勝ち」であることが分かった、と『囲碁史探偵が行く』(福井正明 著)で以前読んだのですが、

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その「2目」の真実を見つけたご本人のWEBページに行き当たりました。
棋譜管理ソフトを自作されていて、「耳赤」は有名で最終手までの記録があるのでちょうどよいとデータ入力したところどの棋書にも「3目差」とあるのにコンピュータは「2目」と示す・・・。
読むとその興奮が伝わってきてドキドキしますよ!
↓↓
http://www2.tokai.or.jp/igo/zakkan-hakken.htm

タグ:秀策
posted by もっも at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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